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第一章 第7話 足跡

Penulis: 葉月うみ
last update Tanggal publikasi: 2026-06-11 15:44:22

 セレネの視線は、ずっと中庭の奥のほうへ向けられていた。死体ではない。もっと奥の、別の何かを探しているような目だった。

「……お前、何を見てる」

 ルシアンは低く問う。

 セレネはすぐには答えなかった。睫毛の動きすら惜しむように、視線だけが、ゆっくりと中庭の隅から隅へと流れていく。それから、ぽつりと言った。

「まだ、分かりません。ですが、嫌な感じがします」

 その時だった。

「殿下」

 中庭の側で待機していた男が、早足で駆け寄ってきた。エドガー。王族特務隊の隊長補佐。数か月前から隊長補佐になった男だが、普段は資料整理を任せている、几帳面で空気を読むことに長けた男だった。

「現場の封鎖は完了しております」

 ルシアンが到着するより、ずっと早く済ませてあった、ということだ。

「生徒は」

「目撃した数名は、講堂へ誘導してあります。ですが、噂はかなり広がっております」

 ルシアンは小さく舌打ちした。

「だろうな」

 全寮制の学院で、噂を止めることは難しい。一度広がった恐怖は、夜になるほど形を変えて膨れ上がる。寮の壁の薄さを、ルシアンはこの学院を出るまでの数年間、嫌というほど知っていた。

「行くぞ」

 ルシアンは中庭へ続く回廊を進んだ。

 古い石造りの廊下には、まだ朝の冷気が残っていた。色硝子を通った淡い光が、磨かれた床の上に、桃色と紫の斑をぼんやりと落としている。生徒たちの靴音は、もう聞こえない。誰もが講堂か寮へ追いやられたあとの回廊では、自分たちの足音だけが、奇妙に長く尾を引いた。

 やがて、中庭へ出た。

 最初に届いたのは、温度ではなく、湿度だった。回廊の屋根の下とは違う、雨上がりの土の匂いが、深く胸の中まで降りてくる。その匂いの奥に、ほんの一筋だけ、別の匂いが混ざっている。

 血の匂いではない。けれど、血の匂いに近い、湿った金属の匂いだった。

 中央の噴水の前に、数人の騎士と教師が、暗い顔で立ち尽くしていた。誰もが半歩、噴水から距離を取っている。

 その中心に、男が一人、座っていた。

「……またか」

 ルシアンの口から、唸るような声が漏れた。

 中年の男だった。質素な黒衣。学院の教師の服だ。猫背気味の肩。歳のわりに痩せた首筋。ありふれた老年の学者の体つきだった。

 その顔に、まったく場違いな、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 灰色の唇。乾いた皮膚。血の気を完全に失った頬。第一の被害者と、まったく同じだった。人の形だけを残して、中身を空にされたような身体。違うのは、座らされている場所と、笑ってみている先――噴水の水面が、その視線の先にあること、だけだった。

 男の身体は、噴水の前に器用に座ったまま倒れずに、亡くなっている。

 まるで人形のように――

「身元は」

「歴史学教師、アルバート・レイン、と」

 教師の一人が、青ざめた顔で答える。

「昨夜は、図書塔で資料整理をしておりました。深夜まで、塔の窓に灯りがついていたのを、巡回中の用務員が見ております」

「最後に確認されたのは」

「夜半過ぎ、と」

 ルシアンは黙って、頷いた。

「発見時の状況は」

「早朝巡回の教員が、噴水の前で見つけました。いえ……」

 教師は、唇を一度湿らせてから、言い直した。

「座っていた、と、申し上げた方が、正しいかもしれません」

「座っていた」

 ルシアンが繰り返す。

「噴水を見上げるようにして……笑いながら」

 誰も、言葉を継がなかった。水音だけが、静かに噴水の縁へ落ちていた。

 ルシアンは死体へ近づいた。革靴の下で、雨上がりの石畳が、わずかに沈むような感触を伝える。死体の足元から、ほんの数歩離れたところで、立ち止まった。

「セレネ」

 彼女は、すでにそこにしゃがみ込んでいた。白い指先が、教師の首筋に、躊躇いもなく触れる。

「……硬直が早いですね」

「死亡推定時刻は」

「おそらく深夜二時から三時頃。最初の事件より、少し遅い」

 短く答えながら、セレネは死体の腕を持ち上げた。重く、力なく落ちる手首を、慎重に支える。教師の黒衣の袖をめくると、痩せた肘の内側に、針穴のような小さな痕があった。前の被害者と、まったく同じ場所、まったく同じ大きさ。

「同じです」

「同じ犯人か」

「あるいは、同じ手口を真似た別人か。少なくとも、まったく違う人間が偶然同じことをした、とは考えにくいです」

 ルシアンは無意識に、自分の指の関節を一度だけ鳴らした。

「やはり連続殺人だな」

「ええ」

 その時だった。

 セレネの動きが、ふいに止まった。

 ルシアンが視線を上げると、セレネは死体の足元、その少し向こうの石畳を、じっと見つめていた。

「どうした」

「靴跡が、あります」

 ルシアンも視線を落とす。

 雨上がりの石畳の表面に、薄い泥の跡が、いくつか散っていた。死体のすぐ脇から、噴水の縁の奥へ向かって、続いている。

「昨夜のものか」

「おそらく。雨が止んだのが深夜です。それ以降に付いた跡なら、ここまで形を保ったまま残っていても、不自然ではありません」

 セレネはしゃがんだまま、長い指先を、石の継ぎ目の上に滑らせた。指の腹で泥の縁を払うと、泥はわずかに濡れた光を返した。雨で完全には洗われていない。

「ですが」

 彼女の指の動きが、止まった。

「大きさが、違います」

 ルシアンが目を細める。

 よく見ると、確かに、靴跡には二種類あった。ひとつは大人の男の革靴に近い大きさ。けれどもうひとつ、死体に最も近い方の一対は、明らかに小さかった。大人の男の足では、ありえないほどに。

「女か」

「断定はできません」

 セレネは石畳から指を離した。

「ですが、少なくとも、ここには二人いました」

 ルシアンは無言で、その小さな靴跡を見下ろした。

 その時だった。

「ルシアン殿下」

 回廊の側から、若い声が響いた。

 振り返ると、1人の少年が、息を切らせながら駆けてきていた。乱れた黒髪。襟元のリボンが斜めに歪んでいる。だが、その顔の輪郭と、走るたびに乱れる前髪の下から覗く瞳の色を見て、ルシアンの胸の奥で、小さな舌打ちが落ちた。

 黒髪。海色の瞳。

 ヴァルキュリア家の血だ。

 セレネとは違い、その表情は感情をそのまま乗せていた。少年らしい頬の丸み。慌てているのが一目で分かる、上下する肩。

「フィン」

 ルシアンより先に、セレネが名を呼んだ。

 フィン・ヴァルキュリア。セレネの弟。学院在校生。年は、確か15歳。ルシアンも、何度かこの学院の社交行事で顔を合わせたことがあった。姉に似た繊細な顔立ちに、似ても似つかない人懐こさを乗せた、不思議な少年だった。

「殿下、本当に、死体が──」

 そこで、フィンの言葉が止まった。視線が、布をかけられる前の死体を、捉えてしまった。15歳の少年が、見るには早すぎる光景だった。

「……っ」

 血の気が、目に見えて頬から引いていく。

「見るな」

 ルシアンは短く言った。

 だが、フィンの視線は、死体には、もう向いていなかった。

 その小さな視線は、死体の向こう、噴水の水面へ、まっすぐ吸い込まれていた。

「……姉上」

 震えた声だった。

「今、あそこに……誰か、いませんでしたか」

 誰も、すぐには答えなかった。

 騎士たちが、一斉に噴水へ視線を移した。揺れる水面。雨上がりの僅かな波紋。けれど、そこには誰の影もなかった。少なくとも、ルシアンの目には。

「フィン」

 セレネが立ち上がり、弟へ歩み寄った。その動作には、姉らしい慌てがなかった。一定の歩幅。一定の速度。それでもフィンの肩のあたりで、彼女の歩みは、自然と止まった。

「深呼吸して」

 短い言葉だった。

 フィンが、息を呑み込んだ。

「でも、本当に……」

「恐怖は、認識を簡単に置き換えてしまいます」

 セレネの声は、いつも通り抑揚が薄かった。けれど、弟へかける言葉だからだろうか、ルシアンの耳には、ほんのわずか、声の温度が違って聞こえた。

「特に、今の学院では」

 フィンは唇を強く噛み、俯いた。襟元の歪んだリボンが、その動きで一度だけ揺れた。

 ルシアンは、その姉弟の様子を見ながら、視線を噴水へ戻した。揺れる水面。何も映っていない水面。フィンが見たという「誰か」の影は、もう、どこにもなかった。

 ただ、セレネの視線だけが、再び、中庭の奥のほうへ流れていた。死体の方角ではなく、図書塔の足元の方角。先ほどから、ずっと、彼女の目を奪い続けている、その方角へ。

 その時だった。

 学院の時計塔から、低く、重い鐘の音が響いた。

 始業の鐘。

 その音は、何ごともない朝のはずだった音だった。生徒たちが教科書を抱えて講堂へ向かい、教師たちが教壇へ歩いていく、ありふれた朝の合図のはずだった。

 その鐘の音が鳴り終わるよりも早く、回廊の奥からは、別の足音が、こちらへ近づいてきていた。1人や2人ではない。寮から、ざわめきと共に押し寄せてくる、たくさんの靴音。

 噂を聞きつけた生徒たちが、こちらへ集まり始めていた。

「……まずいな」

 ルシアンは低く呟いた。

 数年前まで、自分も、その靴音の中の1人だった。怪談話を、夕食の席で笑いながら囁き合った夜もあった。けれど今日、その靴音の主たちが向かっているのは、噂ではなく、噂が確かに「在った」と知らせる現場だった。

 ルシアンは外套の襟元を握り直し、騎士たちに向かって、低く命じた。

「布を、急げ」

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